日本が誇るサルサ・バンド、サルサ・スィンゴサ(Per.大儀見元、率いる)が、フジ・ロック・フェスに登場します。
7月29日の最終日。5:40PM〜6:50、オレンジ・コートで。フェスに集った人は必見。必聴。楽しさの中に、ヘビーでアフロチックなダークネスが光ります。
2007年07月29日
2007年07月28日
ソマリアから、ふたつのニュース
【国民和解会議、新たな迫撃砲攻撃で再度延期】
15日に起きた迫撃砲の攻撃で1度延期となっていたソマリアの国民和解会議が、19日、新たに迫撃砲による攻撃を受け、再度延期となっている。
この爆撃により、こどもを含む 5人が死亡、数人が負傷した。目撃者によると、首都モガディシオ北部の同会議会場付近に迫撃砲が着弾。会議場には1000人ほどの参加者が集っていたとされている。攻撃は国民和解会議の反対派勢力によるものとみられ、会議は21日まで延期となっているが、その後の経緯はわかっていない。
【モガディシオからの避難民増加、援助が緊急課題に】
ソマリアの首都モガディシオで、爆撃など市民の安全を脅かす暴力が続き、ソマリアが不安定な状態に入って後この16年間でもっとも危機的状況が発生してから数カ月が経過。現在も40万人の避難民が家に戻れず、大多数はモガディシオから西に約30kmのアフグーエとハワ・アブディに避難、極めて過酷な環境下で生き延びている。 避難民に緊急医療援助活動や援助物資の配布などを行っている、国境なき医師団(MSF)の、アフグーエにおける責任者フェイザル・アブドゥルカディール氏はこう語っている。「ここでは食糧配給がまったくなく、避難民に対し援助を提供する団体も少ない。食糧価格の高さや、安定した収入源のないことなども、大きな問題」。 2007年6月に、MSFは避難民の集まる地域で健康状態の調査を行った。予備調査の結果、栄養失調率が21.5%、うち重度の急性栄養失調率が3%であった。これは、世界保健機関(WHO)の分類で栄養危機と定義されるものである。現地で調査を行ったモニカ・ラル医師は、「調査が行われた世帯のうち6%が前日に何も食べていなかった。60%以上の世帯では収入を得る術がなく、93%では既に食糧がないか、間もなく備蓄がなくなる状況にある」と報告している。
今年1月、米軍による攻撃が起きて以来、さらなる混乱を呈するモガディシオと周辺地域での危機的状況が海外メディアの注目をよぶことは極めて少ない。悪化する状況の中、MSFは大規模な人的災害がさらに生じるのを防ぐため、関係者らに直ちに援助を提供するよう要求している。
AFPBB News(7月20日) 国境なき医師団(MSF/7月24日)のニュースサイト参照 要約/石井 良子 編集Africa-latina/Mii
15日に起きた迫撃砲の攻撃で1度延期となっていたソマリアの国民和解会議が、19日、新たに迫撃砲による攻撃を受け、再度延期となっている。
この爆撃により、こどもを含む 5人が死亡、数人が負傷した。目撃者によると、首都モガディシオ北部の同会議会場付近に迫撃砲が着弾。会議場には1000人ほどの参加者が集っていたとされている。攻撃は国民和解会議の反対派勢力によるものとみられ、会議は21日まで延期となっているが、その後の経緯はわかっていない。
【モガディシオからの避難民増加、援助が緊急課題に】
ソマリアの首都モガディシオで、爆撃など市民の安全を脅かす暴力が続き、ソマリアが不安定な状態に入って後この16年間でもっとも危機的状況が発生してから数カ月が経過。現在も40万人の避難民が家に戻れず、大多数はモガディシオから西に約30kmのアフグーエとハワ・アブディに避難、極めて過酷な環境下で生き延びている。 避難民に緊急医療援助活動や援助物資の配布などを行っている、国境なき医師団(MSF)の、アフグーエにおける責任者フェイザル・アブドゥルカディール氏はこう語っている。「ここでは食糧配給がまったくなく、避難民に対し援助を提供する団体も少ない。食糧価格の高さや、安定した収入源のないことなども、大きな問題」。 2007年6月に、MSFは避難民の集まる地域で健康状態の調査を行った。予備調査の結果、栄養失調率が21.5%、うち重度の急性栄養失調率が3%であった。これは、世界保健機関(WHO)の分類で栄養危機と定義されるものである。現地で調査を行ったモニカ・ラル医師は、「調査が行われた世帯のうち6%が前日に何も食べていなかった。60%以上の世帯では収入を得る術がなく、93%では既に食糧がないか、間もなく備蓄がなくなる状況にある」と報告している。
今年1月、米軍による攻撃が起きて以来、さらなる混乱を呈するモガディシオと周辺地域での危機的状況が海外メディアの注目をよぶことは極めて少ない。悪化する状況の中、MSFは大規模な人的災害がさらに生じるのを防ぐため、関係者らに直ちに援助を提供するよう要求している。
AFPBB News(7月20日) 国境なき医師団(MSF/7月24日)のニュースサイト参照 要約/石井 良子 編集Africa-latina/Mii
2007年07月27日
ソマリアの人々の声
ソマリアの人々の声を「国境なき医師団」のサイトから引用しつつ、要約してアップしました。
辛い話しです。もし耐えられない人は、読み飛ばしてください。
それでもソマリアの人々は、これからも生きていくんです。
今はまだウォッチしかできない私たちですが、そのことによってきっと何かが展開していくことを願いつつ。
最近、発見したこと。辛いことや悲しいことを知ったり読んだりすることに対して免疫ができても、それに対する悲しみや憤りの感情というのは、衰えない、ということ。
辛い話しです。もし耐えられない人は、読み飛ばしてください。
それでもソマリアの人々は、これからも生きていくんです。
今はまだウォッチしかできない私たちですが、そのことによってきっと何かが展開していくことを願いつつ。
最近、発見したこと。辛いことや悲しいことを知ったり読んだりすることに対して免疫ができても、それに対する悲しみや憤りの感情というのは、衰えない、ということ。
2007年07月25日
【ソマリアからの声:モガディシオを逃れた人びとの話】
今年3月から4月にかけて、ソマリアの首都モガディシオで発生した戦闘により、一般市民に多数の犠牲者が出たほか、数十万人の住民がモガディシオを逃れて避難した。国境なき医師団(MSF)のスタッフは、各地でその避難民を目撃した。避難民の3分の2は、5月末までにモガディシオに戻ったと推定されるが、帰還を望まない人や帰還できない人も多数いる。
MSFは、5月に南ガルカイヨにあるMSFの病院を訪れた避難民の何人かにインタビューを行った。
■「同乗の少女たちがレイプされた」
妊娠7ヵ月の17才の女性:2007年5月13日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「多数の銃弾が私たちの共同住宅に撃ち込まれ、兄が亡くなり、家が崩壊しました。
その後、モガディシオから避難しました。母や夫たちは低木地帯へ行きましたが、私は妊娠しているので一緒には行けず、ガルカイヨへバスで向かいました。
途中、銃を持った若い男たちが現れてバスが止められました。そして彼らの数人が4人の少女をバスから降ろし、レイプしました。私は後ろに座っていた男性に助けられました。彼は、自分は夫であり、私が妊娠していると言ってくれたのです。
この男たちが誰なのか、私にはわかりません。持ち物も全て奪われました。被害を受けた女性たちは、こうしたことは初めての経験ではないと言っていました。
ガルカイヨに私の家族はいません。安否さえわかりません。モガディシオから避難した人びとのほとんどは、ボサソやブルコなど北部の町へ行きますが、私にはお金がないため、ガルカイヨにとどまるしかありませんでした。」
■「停止命令なく、民兵に襲われた」
30代後半の学校教師の男性:2007年5月13日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「モガディシオでは教師として働いていましたが、戦闘により学校が閉鎖され、治安状況が悪化したため、姉の住むガルカイヨに家族と一緒に避難して来ました。
ガルカイヨへ向かう途中の道路には、多数のバリケードが設けられていました。彼らは私たちの車を止め、お金を要求しました。お金を出さなければ、持ち物や車が奪われます。ここまで来るのに3日かかりましたが、その間、私たちの車は頻繁に民兵や強盗に襲われました。ある場所では、彼らは停止命令も出さずに、私たちの車に向けて発砲しました。それにより、乗客の1人が重傷、別の1人が負傷しましたが、近くには病院がなく、重傷を負った男性は2時間後に亡くなりました。その後、小さな町で遺体と負傷した男性を託しましたが、病院のスタッフは医薬品がないと言っていました。」
■「家族の死んだ場所、モガディシオへは帰りたくない」
27才の女性:2007年5月19日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「家が爆破され、持ち物も全て失い、私に残されたのは1才半の娘だけです。行く当てもないままバアドウィンへ避難し、それからガルカイヨに来ました。夫はどこにいるのかわかりません。
多くの人びとがモガディシオを離れ、低木地帯へ行き、バアドウィンなどの地方にとどまっています。彼らは、平静が戻ってもモガディシオには帰りたくないと言っています。若者たちは家族が死んだ場所を覚えていて、そこへは帰りたがらないのです。
モガディシオを出たとき、私は妊娠6ヵ月でしたが、道中が悪かったのか、バアドウィンの家にいるときに流産しました。その後、痛みと出血がひどくなりました。バアドウィンから12時間バスに揺られ、ようやくガルカイヨ病院にたどり着きました。娘はバアドウィンに残してきました。」
■「遺体は放置されたまま、悪臭を放っていた」
1才7ヵ月と3才の子どもを持つ30才の女性:2007年5月19日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「近所で爆発が相次ぎ、多くの人びとが死亡し、家が破壊されました。遺体は悪臭を放ったまま収容する人もなく、私たちも戦闘が続いているため、道路脇に寄せることすらできませんでした。女性や子どもの遺体でした。
私たちはモガディシオを離れざるを得ませんでした。お金も食べ物もなかったからです。2人の子どもを連れて、モガディシオの西30kmのアフグーエへ徒歩で向かいました。他にも多くの人たちが同じ道を歩いていました。
その後、ガルカイヨへ車で向かう人たちを見つけ、子どもを連れてアフグーエを発ちました。モガディシオにいたときに、夫が電話でガルカイヨにいると連絡してきましたが、私がガルカイヨに着いたときには、もういませんでした。」
国境なき医師団のサイト参照 情報発信日7月13日 /要約 鬼沢幸江
MSFは、5月に南ガルカイヨにあるMSFの病院を訪れた避難民の何人かにインタビューを行った。
■「同乗の少女たちがレイプされた」
妊娠7ヵ月の17才の女性:2007年5月13日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「多数の銃弾が私たちの共同住宅に撃ち込まれ、兄が亡くなり、家が崩壊しました。
その後、モガディシオから避難しました。母や夫たちは低木地帯へ行きましたが、私は妊娠しているので一緒には行けず、ガルカイヨへバスで向かいました。
途中、銃を持った若い男たちが現れてバスが止められました。そして彼らの数人が4人の少女をバスから降ろし、レイプしました。私は後ろに座っていた男性に助けられました。彼は、自分は夫であり、私が妊娠していると言ってくれたのです。
この男たちが誰なのか、私にはわかりません。持ち物も全て奪われました。被害を受けた女性たちは、こうしたことは初めての経験ではないと言っていました。
ガルカイヨに私の家族はいません。安否さえわかりません。モガディシオから避難した人びとのほとんどは、ボサソやブルコなど北部の町へ行きますが、私にはお金がないため、ガルカイヨにとどまるしかありませんでした。」
■「停止命令なく、民兵に襲われた」
30代後半の学校教師の男性:2007年5月13日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「モガディシオでは教師として働いていましたが、戦闘により学校が閉鎖され、治安状況が悪化したため、姉の住むガルカイヨに家族と一緒に避難して来ました。
ガルカイヨへ向かう途中の道路には、多数のバリケードが設けられていました。彼らは私たちの車を止め、お金を要求しました。お金を出さなければ、持ち物や車が奪われます。ここまで来るのに3日かかりましたが、その間、私たちの車は頻繁に民兵や強盗に襲われました。ある場所では、彼らは停止命令も出さずに、私たちの車に向けて発砲しました。それにより、乗客の1人が重傷、別の1人が負傷しましたが、近くには病院がなく、重傷を負った男性は2時間後に亡くなりました。その後、小さな町で遺体と負傷した男性を託しましたが、病院のスタッフは医薬品がないと言っていました。」
■「家族の死んだ場所、モガディシオへは帰りたくない」
27才の女性:2007年5月19日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「家が爆破され、持ち物も全て失い、私に残されたのは1才半の娘だけです。行く当てもないままバアドウィンへ避難し、それからガルカイヨに来ました。夫はどこにいるのかわかりません。
多くの人びとがモガディシオを離れ、低木地帯へ行き、バアドウィンなどの地方にとどまっています。彼らは、平静が戻ってもモガディシオには帰りたくないと言っています。若者たちは家族が死んだ場所を覚えていて、そこへは帰りたがらないのです。
モガディシオを出たとき、私は妊娠6ヵ月でしたが、道中が悪かったのか、バアドウィンの家にいるときに流産しました。その後、痛みと出血がひどくなりました。バアドウィンから12時間バスに揺られ、ようやくガルカイヨ病院にたどり着きました。娘はバアドウィンに残してきました。」
■「遺体は放置されたまま、悪臭を放っていた」
1才7ヵ月と3才の子どもを持つ30才の女性:2007年5月19日、MSFの南ガルカイヨ病院にて
「近所で爆発が相次ぎ、多くの人びとが死亡し、家が破壊されました。遺体は悪臭を放ったまま収容する人もなく、私たちも戦闘が続いているため、道路脇に寄せることすらできませんでした。女性や子どもの遺体でした。
私たちはモガディシオを離れざるを得ませんでした。お金も食べ物もなかったからです。2人の子どもを連れて、モガディシオの西30kmのアフグーエへ徒歩で向かいました。他にも多くの人たちが同じ道を歩いていました。
その後、ガルカイヨへ車で向かう人たちを見つけ、子どもを連れてアフグーエを発ちました。モガディシオにいたときに、夫が電話でガルカイヨにいると連絡してきましたが、私がガルカイヨに着いたときには、もういませんでした。」
国境なき医師団のサイト参照 情報発信日7月13日 /要約 鬼沢幸江
2007年07月20日
【ブッシュ大統領、初代アフリカ軍司令官を指名 資源戦略も視野に】
ブッシュ大統領は7月10日、世界を地域別に管轄する米統合軍のうち、新設するアフリカ軍の初代司令官に、陸軍出身で黒人のウィリアム・ワード欧州軍副司令官を指名すると発表した。
同軍の創設は、米国の地域別の統合軍として6番目。欧州軍の一部として今年10月までに活動を開始し、2008年9月末までに独立軍となる方針が決まっている。本部の所在地は未定で、アフリカ大陸の数カ所に分散させる案も検討されている。
同軍は、アルカイダなどイスラム過激派によるアフリカ大陸への浸透を阻止することが狙い、と謳われている。アルカイダの拠点とされるソマリア、スーダンなどへの対応のほか、アフ リカ進出が著しい中国に対抗するなど、米国のエネルギー資源の権益を確保する狙いもあるとみられる。
7月11日 USFL.COM 、CNN等参照 要約/ 斎藤美帆
同軍の創設は、米国の地域別の統合軍として6番目。欧州軍の一部として今年10月までに活動を開始し、2008年9月末までに独立軍となる方針が決まっている。本部の所在地は未定で、アフリカ大陸の数カ所に分散させる案も検討されている。
同軍は、アルカイダなどイスラム過激派によるアフリカ大陸への浸透を阻止することが狙い、と謳われている。アルカイダの拠点とされるソマリア、スーダンなどへの対応のほか、アフ リカ進出が著しい中国に対抗するなど、米国のエネルギー資源の権益を確保する狙いもあるとみられる。
7月11日 USFL.COM 、CNN等参照 要約/ 斎藤美帆
2007年07月13日
フランス政府、ルワンダ大虐殺の前兆を無視」外交文書見つかる
仏ルモンド紙が7月2日に報じたところによると、1994年のルワンダ大虐殺の指導者であるフツ族が支配するルワンダ政府を、フランスが支援し、さらには虐殺に至る兆候を3年以上も前から知りつつそれでも武器の供給を続けていたことを示す外交文書が見つかった。1994年、ルワンダでは100日間で100万人の犠牲者が出たといわれている。13年を経た現在でもなお犠牲者の遺体が次々と発見される中、新たな「発見」となった。 これは、虐殺の生存者であるツチ族の市民が仏駐留軍を相手に「人道に対する罪」「ジェノサイドの罪」を理由に‘05年に仏軍事裁判所に提訴したことを受け、予審判事が捜査した結果明らかになった。
それによると‘90年10月以降、フランスの駐ルワンダ武官はフツ族とツチ族の対立の高まりを本国へ再三警告し、「組織化されたフツ族農民がツチ族狩りにかり出されている事実」「大量殺害が一部で始まった」などの報告が続いている。また93年、駐ルワンダ大使は「ツチ族に対する民族浄化が計画されている」ことも指摘。しかしツチ族主導の反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(RPF)」に対抗するために、当時のフツ族主体の政府が、フツ族支援強化をミッテラン大統領に求め、それに応じた仏政府は‘92年以降武器の供給を増やし続けた。(「ホテル・ルワンダ」や、「ルワンダ虐殺の100日」などでも赤いベレー帽のフランス政府軍と、ルワンダのフツ族主導の政府軍がジープに同乗したり、行動を共にするシーンなどが描かれている)
フランス政府は虐殺に関する責任を否定しているが、今回文書が発見されたことで当時のジュペ元外相やジョクス元国防相、ペドリヌ元大統領府事務総長らが証人喚問を求められている。
一方、フランス捜査当局は‘04年にルワンダ大虐殺の責任が当時RPFを統率していたポール・カガメ現ルワンダ大統領にあるという報告をまとめたため、これに反発したルワンダ政府は‘06年にフランスとの国交を断絶し、現在に至っている。
7月4日朝日新聞他、参照 編集・africa-latina/玉川智絵子 & Mii
それによると‘90年10月以降、フランスの駐ルワンダ武官はフツ族とツチ族の対立の高まりを本国へ再三警告し、「組織化されたフツ族農民がツチ族狩りにかり出されている事実」「大量殺害が一部で始まった」などの報告が続いている。また93年、駐ルワンダ大使は「ツチ族に対する民族浄化が計画されている」ことも指摘。しかしツチ族主導の反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(RPF)」に対抗するために、当時のフツ族主体の政府が、フツ族支援強化をミッテラン大統領に求め、それに応じた仏政府は‘92年以降武器の供給を増やし続けた。(「ホテル・ルワンダ」や、「ルワンダ虐殺の100日」などでも赤いベレー帽のフランス政府軍と、ルワンダのフツ族主導の政府軍がジープに同乗したり、行動を共にするシーンなどが描かれている)
フランス政府は虐殺に関する責任を否定しているが、今回文書が発見されたことで当時のジュペ元外相やジョクス元国防相、ペドリヌ元大統領府事務総長らが証人喚問を求められている。
一方、フランス捜査当局は‘04年にルワンダ大虐殺の責任が当時RPFを統率していたポール・カガメ現ルワンダ大統領にあるという報告をまとめたため、これに反発したルワンダ政府は‘06年にフランスとの国交を断絶し、現在に至っている。
7月4日朝日新聞他、参照 編集・africa-latina/玉川智絵子 & Mii
【Refugee Film Festival 2007】
今年で2回目となるRefugee Film Festivalでは、アジア、アフリカ、中東地域の難民を描いた映画やドキュメンタリー30作品が上映されます。http://www.refugeefilm.org/
<日程>
2007年7月18日(水)〜26日(木)
<会場>
東京日仏学院(JR/地下鉄「飯田橋」駅 徒歩7分)
Goethe-Institut ドイツ文化センター(地下鉄 「青山一丁目」駅 徒歩5分)
<入場料>
無料 (先着順:座席に限りがあります)
<共催>
国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所、日本UNHCR協会
<お問い合わせ>
jpntofes@unhcr.org
<日程>
2007年7月18日(水)〜26日(木)
<会場>
東京日仏学院(JR/地下鉄「飯田橋」駅 徒歩7分)
Goethe-Institut ドイツ文化センター(地下鉄 「青山一丁目」駅 徒歩5分)
イタリア文化会館(地下鉄 「九段下」駅 徒歩10分)
<入場料>
無料 (先着順:座席に限りがあります)
<共催>
国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所、日本UNHCR協会
<お問い合わせ>
jpntofes@unhcr.org
2007年07月08日
ソマリアの歴史 ついにアップしました !
念願のソマリアの歴史、ついにアップしました。深謝 Mr. Ootsu !
ソマリア基本情報を開けてご覧ください。
最新のニュースをを開けると、「その2」から読むようになってしまいますが、ある程度の知識をお持ちの方はこちらから読まれてもいいかと思います。
歴史の順を追って読みたい方は、「その1」からどうぞ。
しかも ! さらにわかりやすく、また補足も加えた「改定版」がすでに進行中です。出来上がりましたら、差し替えとなります。こちらもしばらくお待ちください ! !
ソマリアの歴史 by Ootsu その2
<軍事政権崩壊後>
ソマリア中・南部
1991年1月下旬に統一ソマリア会議の部隊がバーレを追放すると、統一ソマリア会議の一派がアリ・マフディ・モハメド(ハウィイェ氏族・アブガル下部氏族)が暫定大統領となることを宣言し、バーレ政権の元閣僚を含んだ暫定政権が設置された。統一ソマリア会議の軍事指導者、モハメド・ファラー・アイディード(ハウィイェ氏族・ハブルゲディル下部氏族)は、この動きに強く反発した。2月にモガディシオで開催される予定だった諸勢力の間での和解会議はボイコットされ、その後ジブチで開かれた会議でも和解はもたらされず、アイディード将軍とアリ・マフディ暫定大統領という2人の武装勢力指導者の抗争を軸に、内戦が広がっていった。
ソマリアでの人道状況の悪化を懸念した国連安全保障理事会は、1992年4月24日、第一次国連ソマリア活動(UNOSOMT)の設置を決議し、人道援助の確保を主な目的とする国連の平和維持活動(PKO)が開始された。しかし、その後、人道状況が深刻化し、UNOSOMTへの攻撃や援助物資の略奪なども増えていったため、国連安保理は、1992年12月3日、統一タスクフォース(UNITAF)の設置を決議し、アメリカを中心とする多国籍軍が、人道援助を強化する活動を展開していった。
1993年3月26日には、より強力な平和執行部隊が必要とされているというブトロス・ガリ事務総長の勧告に基き、国連安保理が第二次国連ソマリア活動(UNOSOMU)を設置し、ソマリアにおけるPKOに大きな変化がもたらされた。UNOSOMUには強制権限が与えられ、武装解除や反対者の逮捕なども行っていくことになったのである。しかし、UNOSOMUがアイディード派の武装解除を進めようとすると、アイディード派は反発し、PKO要員への攻撃が続いた。そこで、アメリカは、国連とは指揮系統の異なる特殊部隊を派遣してアイディード派に対する強制行動を行った(映画『ブラックホーク・ダウン』に描かれている)が、武装勢力による攻撃を受け、ソマリアから撤退することとなった。そして、1995年3月には、ソマリアに派遣されていた全ての外国部隊が撤退した。
1991年以降、近隣国や地域機構などの仲介で、数多くの和平会議が開催されたが、ソマリア中・南部の武装勢力の間で完全な和平が達成されることはなかった。2000年5月には、ジブチ政府のイニシアティブによりアルタで和平会議が開かれ、2000年8月に245名から成る暫定国民議会が樹立され、アブドゥルカシム・サラド・ハッサンが暫定大統領に選出されたが、この暫定国民政府はエチオピアや武装勢力から反発を受け、短命なものに終わった。
2002年には、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、ケニア、ジブチ、スーダン、ソマリアの7ヶ国から成る政府間開発機構(IGAD)の仲介したエルドレット・ナイロビ和平プロセスが開始された。この和平プロセスの結果、2004年10月にはエチオピアの支持するアブドゥッラーヒ・ユスフが暫定大統領に選出され、暫定連邦政府(TFG)が発足し、2006年2月末にはソマリア南部のバイドアで暫定連邦政府(TFG)の議会が初めて開かれた。
しかし、その直前に、2004年末に首都モガディシオで結成されたイスラーム法廷連合(UIC)の勢力拡大を危惧する軍閥から成る「平和の回復と反テロリズムのための同盟(The Alliance for Restoration of Peace and Counter-Terrorism: ARPCT)」がイスラーム法廷連合(UIC)と戦闘を開始し、首都は戦火に包まれていった。暫定連邦政府(TFG)のユスフ暫定大統領は、アメリカがイスラーム勢力と戦う軍閥に資金を提供していることを非難した。戦闘の末、2006年6月5日にはイスラーム法廷連合(UIC)が首都を制圧し、ソマリア中・南部の各地に勢力を拡大していった。
そうしたなか、バイドアの暫定連邦政府(TFG)は、イスラーム原理主義勢力の浸透を警戒するエチオピア軍の支援を受けるようになっていった。その後、9月4日には、アラブ連盟の仲介で開かれたハルツームでの交渉で、暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)は、共同で国軍と警察を組織していくことや近隣国を紛争に巻き込まないことに合意したが、暫定連邦政府(TFG)はエチオピア軍の支援を受け続け、イスラーム法廷連合(UIC)はバイドア方面へ部隊を展開していった。
11月中旬に出された国連の報告書は、10ヶ国が国連によるソマリアへの武器の禁輸措置に違反し、ソマリアに武器を送っていることを指摘した。それによれば、エチオピア、ウガンダ、イエメンが暫定連邦政府(TFG)を支援し、シリア、イラン、エリトリア、ジブチ、エジプト、リビア、サウジアラビアがイスラーム法廷連合(UIC)を支援していた。このような諸外国による干渉は暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との対立を悪化させ、11月末頃にはエチオピア軍・暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との間で散発的な衝突が始まった。
イスラーム法廷連合(UIC)は、12月12日、エチオピア軍が7日間以内にソマリアから撤退しなければ、攻撃を開始して強制的に退去させることを通告したが、エチオピア軍は撤退せず、同月19日にバイドアでエチオピア軍・暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との激しい戦闘が開始された。24日には、エチオピアのメレス・ゼナウィ首相が、イスラーム法廷連合(UIC)からエチオピアの主権を守るためにエチオピア軍の部隊がソマリアに派遣されたことを認め、28日には、エチオピア軍の支援を受けた暫定連邦政府(TFG)軍がモガディシオを制圧した。そして、イスラーム法廷連合(UIC)の勢力は離散し、一部はケニア国境方面へ逃走した。
ニューヨーク・タイムズ紙によれば、暫定連邦政府(TFG)は、31日、在ケニア・アメリカ大使にイスラーム過激派に対して行動を取るよう公式に要請し、2007年1月8日には、アメリカ軍のAC-130攻撃機が、ケニア国境近くのラス・カンボーニで、イスラーム法廷評議会の指導者の1人であったアデン・ハシ・アルヨを主な標的とした爆撃を行い、8人が死亡、3人が負傷した。在ケニア・アメリカ大使は、一般市民は誰も負傷・死亡していないとしたが、ソマリアの国会議員は、この空爆で27人の一般市民が死亡したとした。アメリカは、この爆撃はアメリカと国際社会をアル・カーイダによるさらなる攻撃から守るために必要だったと説明し、ユスフ暫定大統領もこの空爆を強く支持したが、国連安保理決議なしでこのような越境攻撃が行われたことに対して非難の声も上がった。
イスラーム法廷連合(UIC)追放後、治安が悪化し始めたモガディシオでは、民衆がエチオピア軍に対する抗議行動を行い、ユスフ暫定大統領は、2006年12月6日に国連安保理決議で承認されたIGAD諸国からの8千人の平和維持部隊の早期派遣を呼びかけた。
エチオピアは、1月23日、モガディシオからの撤退を開始することを表明したが、この日アメリカが、ケニア国境に近いラス・カンボーニとクルビヨウでイスラーム法廷連合(UIC)指導者を標的とした2度目の爆撃を行い、数多くの民間人が負傷したことが伝えられた。アメリカは、アル・カーイダの人々の影響力がイスラーム法廷連合(UIC)のなかで強まり、ソマリアの人々にとって大きな脅威となっていたとして、この空爆を正当化したが、この攻撃も国連安保理の承認を得ずに実施された。
国連安保理は、2月20日、アフリカ連合ソマリア・ミッション(African Union Mission in Somalia: AMISOM)と呼ばれるアフリカ連合(AU)の平和維持部隊のソマリアへの派遣を承認し、3月上旬には、約1,200名のウガンダ部隊がソマリアに到着した。しかし、ウガンダ部隊やエチオピア軍、暫定連邦政府は、イスラーム主義勢力等の反対派から攻撃を受け、モガディシオを中心に激しい戦闘が再燃した。2月以降、戦闘によりモガディシオから約40万人が避難したと見積もられた。
ユスフ暫定大統領が呼びかけ、当初は4月16日に開催される予定だった国民和解会議は、治安の悪化、イスラーム主義勢力やハウィイェ氏族等からの反発などにより、何度も延期を余儀なくされた。
ソマリランド
北西部を拠点に、バーレ政権に対する軍事闘争を行ってきたソマリ国民運動は、軍事政権崩壊後、バーレ政権の側について戦ってきた氏族との和解を進めた。こうした和解プロセスにおいては、伝統的な氏族指導者たちが重要な役割を果たした。そして、ソマリ国民運動は、1991年5月18日、ソマリランド共和国の独立を宣言した。その後、ソマリランドでも武力衝突が何度も起こったが、氏族の長老たちを中心とした和平への取り組みによって秩序が回復された。2001年5月には、ソマリランドの独立を定めた憲法が国民投票で承認され、2003年4月には大統領選挙、2005年9月には議会選挙が複数政党制の下で実施された。
プントランド
バーレ政権が倒れた後、北東部では、ソマリア救済民主戦線が、統一ソマリア会議やアル・イッティハード・アル・イスラーミーというイスラーム原理主義勢力などと戦闘を繰り広げた。ソマリア救済民主戦線は、イスラーム原理主義勢力との戦闘においては、エチオピア軍からの支援を受けた。1998年5月には、ガロウェでソマリア救済民主戦線や氏族の長老などが主導する会議が開かれ、ソマリア内プントランド国が形成された。プントランドは、分離独立は目指しておらず、将来樹立される連邦国家の一部になることを表明している。ソマリア暫定連邦政府のユスフ暫定大統領は、プントランドの指導者だった。
南西ソマリア国
2002年4月、ラハンウェイン抵抗軍は、ハッサン・ムハンマド・ヌール・シャティグドゥドの指導の下、バイドアを首都とする南西ソマリア国の樹立を宣言した。この勢力は、当時、ベイとバクールの2地方のみを実効支配していたが、中ジュバ、下ジュバ、下シャベレ、ゲドを含めた6地方を支配することを目指していた。南西ソマリア国は、プントランド同様、分離独立ではなく、自治の達成を求めていた。2004年11月には、南西ソマリア国の指導者がソマリア暫定連邦政府の国会議員に選出された。
ソマリア中・南部
1991年1月下旬に統一ソマリア会議の部隊がバーレを追放すると、統一ソマリア会議の一派がアリ・マフディ・モハメド(ハウィイェ氏族・アブガル下部氏族)が暫定大統領となることを宣言し、バーレ政権の元閣僚を含んだ暫定政権が設置された。統一ソマリア会議の軍事指導者、モハメド・ファラー・アイディード(ハウィイェ氏族・ハブルゲディル下部氏族)は、この動きに強く反発した。2月にモガディシオで開催される予定だった諸勢力の間での和解会議はボイコットされ、その後ジブチで開かれた会議でも和解はもたらされず、アイディード将軍とアリ・マフディ暫定大統領という2人の武装勢力指導者の抗争を軸に、内戦が広がっていった。
ソマリアでの人道状況の悪化を懸念した国連安全保障理事会は、1992年4月24日、第一次国連ソマリア活動(UNOSOMT)の設置を決議し、人道援助の確保を主な目的とする国連の平和維持活動(PKO)が開始された。しかし、その後、人道状況が深刻化し、UNOSOMTへの攻撃や援助物資の略奪なども増えていったため、国連安保理は、1992年12月3日、統一タスクフォース(UNITAF)の設置を決議し、アメリカを中心とする多国籍軍が、人道援助を強化する活動を展開していった。
1993年3月26日には、より強力な平和執行部隊が必要とされているというブトロス・ガリ事務総長の勧告に基き、国連安保理が第二次国連ソマリア活動(UNOSOMU)を設置し、ソマリアにおけるPKOに大きな変化がもたらされた。UNOSOMUには強制権限が与えられ、武装解除や反対者の逮捕なども行っていくことになったのである。しかし、UNOSOMUがアイディード派の武装解除を進めようとすると、アイディード派は反発し、PKO要員への攻撃が続いた。そこで、アメリカは、国連とは指揮系統の異なる特殊部隊を派遣してアイディード派に対する強制行動を行った(映画『ブラックホーク・ダウン』に描かれている)が、武装勢力による攻撃を受け、ソマリアから撤退することとなった。そして、1995年3月には、ソマリアに派遣されていた全ての外国部隊が撤退した。
1991年以降、近隣国や地域機構などの仲介で、数多くの和平会議が開催されたが、ソマリア中・南部の武装勢力の間で完全な和平が達成されることはなかった。2000年5月には、ジブチ政府のイニシアティブによりアルタで和平会議が開かれ、2000年8月に245名から成る暫定国民議会が樹立され、アブドゥルカシム・サラド・ハッサンが暫定大統領に選出されたが、この暫定国民政府はエチオピアや武装勢力から反発を受け、短命なものに終わった。
2002年には、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、ケニア、ジブチ、スーダン、ソマリアの7ヶ国から成る政府間開発機構(IGAD)の仲介したエルドレット・ナイロビ和平プロセスが開始された。この和平プロセスの結果、2004年10月にはエチオピアの支持するアブドゥッラーヒ・ユスフが暫定大統領に選出され、暫定連邦政府(TFG)が発足し、2006年2月末にはソマリア南部のバイドアで暫定連邦政府(TFG)の議会が初めて開かれた。
しかし、その直前に、2004年末に首都モガディシオで結成されたイスラーム法廷連合(UIC)の勢力拡大を危惧する軍閥から成る「平和の回復と反テロリズムのための同盟(The Alliance for Restoration of Peace and Counter-Terrorism: ARPCT)」がイスラーム法廷連合(UIC)と戦闘を開始し、首都は戦火に包まれていった。暫定連邦政府(TFG)のユスフ暫定大統領は、アメリカがイスラーム勢力と戦う軍閥に資金を提供していることを非難した。戦闘の末、2006年6月5日にはイスラーム法廷連合(UIC)が首都を制圧し、ソマリア中・南部の各地に勢力を拡大していった。
そうしたなか、バイドアの暫定連邦政府(TFG)は、イスラーム原理主義勢力の浸透を警戒するエチオピア軍の支援を受けるようになっていった。その後、9月4日には、アラブ連盟の仲介で開かれたハルツームでの交渉で、暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)は、共同で国軍と警察を組織していくことや近隣国を紛争に巻き込まないことに合意したが、暫定連邦政府(TFG)はエチオピア軍の支援を受け続け、イスラーム法廷連合(UIC)はバイドア方面へ部隊を展開していった。
11月中旬に出された国連の報告書は、10ヶ国が国連によるソマリアへの武器の禁輸措置に違反し、ソマリアに武器を送っていることを指摘した。それによれば、エチオピア、ウガンダ、イエメンが暫定連邦政府(TFG)を支援し、シリア、イラン、エリトリア、ジブチ、エジプト、リビア、サウジアラビアがイスラーム法廷連合(UIC)を支援していた。このような諸外国による干渉は暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との対立を悪化させ、11月末頃にはエチオピア軍・暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との間で散発的な衝突が始まった。
イスラーム法廷連合(UIC)は、12月12日、エチオピア軍が7日間以内にソマリアから撤退しなければ、攻撃を開始して強制的に退去させることを通告したが、エチオピア軍は撤退せず、同月19日にバイドアでエチオピア軍・暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との激しい戦闘が開始された。24日には、エチオピアのメレス・ゼナウィ首相が、イスラーム法廷連合(UIC)からエチオピアの主権を守るためにエチオピア軍の部隊がソマリアに派遣されたことを認め、28日には、エチオピア軍の支援を受けた暫定連邦政府(TFG)軍がモガディシオを制圧した。そして、イスラーム法廷連合(UIC)の勢力は離散し、一部はケニア国境方面へ逃走した。
ニューヨーク・タイムズ紙によれば、暫定連邦政府(TFG)は、31日、在ケニア・アメリカ大使にイスラーム過激派に対して行動を取るよう公式に要請し、2007年1月8日には、アメリカ軍のAC-130攻撃機が、ケニア国境近くのラス・カンボーニで、イスラーム法廷評議会の指導者の1人であったアデン・ハシ・アルヨを主な標的とした爆撃を行い、8人が死亡、3人が負傷した。在ケニア・アメリカ大使は、一般市民は誰も負傷・死亡していないとしたが、ソマリアの国会議員は、この空爆で27人の一般市民が死亡したとした。アメリカは、この爆撃はアメリカと国際社会をアル・カーイダによるさらなる攻撃から守るために必要だったと説明し、ユスフ暫定大統領もこの空爆を強く支持したが、国連安保理決議なしでこのような越境攻撃が行われたことに対して非難の声も上がった。
イスラーム法廷連合(UIC)追放後、治安が悪化し始めたモガディシオでは、民衆がエチオピア軍に対する抗議行動を行い、ユスフ暫定大統領は、2006年12月6日に国連安保理決議で承認されたIGAD諸国からの8千人の平和維持部隊の早期派遣を呼びかけた。
エチオピアは、1月23日、モガディシオからの撤退を開始することを表明したが、この日アメリカが、ケニア国境に近いラス・カンボーニとクルビヨウでイスラーム法廷連合(UIC)指導者を標的とした2度目の爆撃を行い、数多くの民間人が負傷したことが伝えられた。アメリカは、アル・カーイダの人々の影響力がイスラーム法廷連合(UIC)のなかで強まり、ソマリアの人々にとって大きな脅威となっていたとして、この空爆を正当化したが、この攻撃も国連安保理の承認を得ずに実施された。
国連安保理は、2月20日、アフリカ連合ソマリア・ミッション(African Union Mission in Somalia: AMISOM)と呼ばれるアフリカ連合(AU)の平和維持部隊のソマリアへの派遣を承認し、3月上旬には、約1,200名のウガンダ部隊がソマリアに到着した。しかし、ウガンダ部隊やエチオピア軍、暫定連邦政府は、イスラーム主義勢力等の反対派から攻撃を受け、モガディシオを中心に激しい戦闘が再燃した。2月以降、戦闘によりモガディシオから約40万人が避難したと見積もられた。
ユスフ暫定大統領が呼びかけ、当初は4月16日に開催される予定だった国民和解会議は、治安の悪化、イスラーム主義勢力やハウィイェ氏族等からの反発などにより、何度も延期を余儀なくされた。
ソマリランド
北西部を拠点に、バーレ政権に対する軍事闘争を行ってきたソマリ国民運動は、軍事政権崩壊後、バーレ政権の側について戦ってきた氏族との和解を進めた。こうした和解プロセスにおいては、伝統的な氏族指導者たちが重要な役割を果たした。そして、ソマリ国民運動は、1991年5月18日、ソマリランド共和国の独立を宣言した。その後、ソマリランドでも武力衝突が何度も起こったが、氏族の長老たちを中心とした和平への取り組みによって秩序が回復された。2001年5月には、ソマリランドの独立を定めた憲法が国民投票で承認され、2003年4月には大統領選挙、2005年9月には議会選挙が複数政党制の下で実施された。
プントランド
バーレ政権が倒れた後、北東部では、ソマリア救済民主戦線が、統一ソマリア会議やアル・イッティハード・アル・イスラーミーというイスラーム原理主義勢力などと戦闘を繰り広げた。ソマリア救済民主戦線は、イスラーム原理主義勢力との戦闘においては、エチオピア軍からの支援を受けた。1998年5月には、ガロウェでソマリア救済民主戦線や氏族の長老などが主導する会議が開かれ、ソマリア内プントランド国が形成された。プントランドは、分離独立は目指しておらず、将来樹立される連邦国家の一部になることを表明している。ソマリア暫定連邦政府のユスフ暫定大統領は、プントランドの指導者だった。
南西ソマリア国
2002年4月、ラハンウェイン抵抗軍は、ハッサン・ムハンマド・ヌール・シャティグドゥドの指導の下、バイドアを首都とする南西ソマリア国の樹立を宣言した。この勢力は、当時、ベイとバクールの2地方のみを実効支配していたが、中ジュバ、下ジュバ、下シャベレ、ゲドを含めた6地方を支配することを目指していた。南西ソマリア国は、プントランド同様、分離独立ではなく、自治の達成を求めていた。2004年11月には、南西ソマリア国の指導者がソマリア暫定連邦政府の国会議員に選出された。
Africa-latina/ 大津祐嗣
ソマリアの歴史 by Ootsu その1
★ソマリアの歴史★
<植民地化以前>
ソマリアでハム系のソマリ人が勢力を拡大する以前(10世紀頃まで)は、オロモ人やバントゥ系の農耕民などが南部の肥沃な地域に暮らしていたと言われる。また、ソマリア沿岸部には、イスラームの広がる前(7世紀以前)からアラブ系の移民が流入し、数多くの港湾都市を形成していた。10世紀頃には、ソマリ人が北部沿岸地方を支配し始め、その後、南部へと勢力を拡大していったとされる。
外国勢力が植民地支配を開始する前のソマリアには、いくつか中央集権的な国も存在したが、概して、伝統的ソマリ社会は、男を通じて始祖へと遡る分散的な血族関係システムに基いた無国家社会だった。そうしたなか、ソマリ人は、氏族、下部氏族、ディヤ補償集団(注)など、様々な規模の血族集団に同時に属しながら、遊牧生活を営み、長老たちの評議会や慣習法、イスラーム法などを通じて、社会秩序を維持していた。イスラームは早い時期からソマリアに浸透し、ほぼ全てのソマリ人がスンニ派のイスラーム教徒となっていった。
17世紀末には南部のモガディシオなどの港がオマーン王国の支配下に入り、18世紀には北部の港がオスマン・トルコに支配されるようになった。19世紀前半には、南部沿岸の港町がザンジバル(現在のタンザニアに含まれる島)の勢力圏に入り、19世紀半ば以降、ソマリアはイギリス、フランス、イタリアの間での植民地化競争に巻き込まれていった。そして、1887年には、イギリスが北部のベルベラにソマリランド保護領を樹立し、1889年からは、イタリアが南部の海岸部を支配し始めた。ソマリア南部のジュバ川以南の地域は、1895年までイギリス帝国東アフリカ会社が所有していたが、その後、イギリスの東アフリカ保護領の一部とされ、1924年にイタリア領ソマリランド(北部のイギリス領ソマリランドとは異なる)に譲渡された。
(注)ディヤ補償集団は、核家族・大家族に次いで最も重要な社会組織で、数百人から数千人まで様々な規模のものがあった。これよりさらに規模の大きなものが下部氏族で、複数の関係する下部氏族の集まりが氏族である。
<植民地時代>
ソマリア北西部のイギリスのソマリランド保護領では、1899年から1920年までの約20年間、宗教指導者サイイッド・マハメド・アブドゥレ・ハッサンが、ダラウィーシュ(デルヴィッシュ)と呼ばれる反乱軍を率いて、植民地政府に対する闘争を行った。このダラウィーシュ運動が不成功に終わると、イギリス人は、内陸部への勢力の拡大を進めた。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、イタリアがイギリス領ソマリランドを一時期占領したが、1941年にはイギリスが自国領を奪還し、南部のイタリア領ソマリランドをも支配下に置いた。1940年代には、イギリス植民地政府が北西部で住民の政治活動の禁止を解除したことで、ソマリ人による民族主義運動が盛んになり、多くのソマリ人政治指導者がイギリス領ソマリランド、イタリア領ソマリランド、エチオピア東部のソマリ人居住地域(オガデン地方:後にこの地方をめぐってソマリアとエチオピアの間で戦争が勃発)、フランス領ソマリ海岸(現在のジブチ)、ケニアのソマリ人居住地域(北部辺境県)を統一して汎ソマリ国家を築こうという大ソマリア主義を唱えるようになった。
第二次大戦中にイギリスが占領した南部の元イタリア領ソマリランドは、1950年に国連信託統治領とされ、イタリアが10年間管理することになった。この信託統治領でも急速に民族主義運動が高まっていった。
1960年6月26日には、北西部のイギリス保護領がソマリランドとして独立し、6月30日には、イタリアが管轄していた南部の国連信託統治領がソマリアとして独立を宣言した。そして、その翌日の7月1日、ソマリランドとソマリアが合併してソマリア共和国が誕生した(1991年のバーレ政権崩壊後、ソマリランドは再び独立を宣言)。
<文民政権時代>
ソマリア共和国が成立すると、ソマリランド首相が教育大臣という比較的地位の低いポストに任命されたり、国会で北部が南部の3分の1ほどの議席しか与えられなかったりしたことなどから、北部では南部に対する不満が募っていった。1961年に実施された、ソマリランドとソマリアの統一を謳った憲法に関する国民投票では、ソマリランドの投票者の6割が反対した。しかし、多数派である南部の人々の票により、憲法が承認された。この国民投票の半年後、北部の中心都市であるハルゲイサでクーデター未遂事件が起こった。
初代大統領となったアデン・アブドゥラ・オスマンは、大ソマリア主義・民族統一を掲げたが、1963年、イギリスは、主にソマリ人が住むケニアの北部辺境県を含めてケニアに独立を与え、1964年には、エチオピアのオガデン地方をめぐる戦闘でもソマリア軍は勝利することができず、大ソマリアの夢は強い打撃を受けた。
1967年にはアブディラシッド・アリ・シェルマルケが第二代大統領に就任し、1969年には62もの政党が競い合う議会選挙が実施された。この選挙では、政治指導者の間で思想的な相違が少ないなか、氏族的な背景が、政党や候補者を区別するほぼ唯一の要因となった。選挙後には、ほぼ全ての野党議員が国家権力の中枢にできるだけ近づこうとして与党に移り、ソマリアの議会制民主主義は大きく損なわれた。
その後、ラス・アーヌードの町でシェルマルケ大統領がボディ・ガードによって暗殺された。そして、議会が次期大統領を選出する投票を行う前日の夜、軍司令官のモハメド・シアド・バーレ将軍が率いる軍部がクーデターを起こし、1969年10月21日に国家権力を掌握した。
<軍事政権時代>
1969年10月21日にクーデターで国家権力を掌握した勢力は、まず以前あった議会、行政府、司法の組織を解体し、シアド・バーレ将軍を議長とし、24人から成る最高革命評議会を、唯一かつ絶対の立法・政策立案機関とした。
バーレは、「科学的社会主義」のイデオロギーに基いて社会主義国家の建設を目指し、抑圧的な独裁体制を敷いた。1976年には、ソマリ社会主義革命党が創設された。バーレ軍事政権は、ソ連の軍事援助を受けて軍を増強し、大ソマリア主義を掲げて、1977年にエチオピアのオガデン地方に侵攻した。このオガデン戦争では、ソ連がソマリアへの支援を止めて、メンギストゥの率いるエチオピア社会主義政権に強く肩入れしたことで、ソマリアは敗北した。そして、バーレ政権は、敗戦後、社会主義路線を放棄し、一転、アメリカから軍事援助を受けるようになった。
ダロッド氏族の下部氏族、マーレハンに属すバーレは、表向きは「氏族主義」の打破を唱えながら、実際には、ダロッドの3つの下部氏族、マーレハン、オガデン、ドゥルバハンテを特に優遇し、他の氏族や下部氏族を抑圧して支配を行うこともあった。北西部では、イサック氏族が組織的な差別・弾圧を受けた。それに抵抗するため、1981年にはイサック氏族を中心とするソマリ国民運動という反政府組織が結成され、(旧)南イエメン、リビア、そして主にエチオピアから支援を受けて、バーレ政権(アメリカの軍事援助を受けていた)に対する武装闘争を展開していった。また、マジェルティーン下部氏族を中心とするソマリ救済戦線や、ソマリア救済民主戦線、ハウィイェ氏族の戦闘部隊、1989年にハウィイェ氏族を中心に結成された統一ソマリア会議、南部のソマリ愛国運動なども反政府闘争を行っていった。そして、内戦が国中に広がり、1991年1月にバーレ政権が崩壊した。
1980年代から展開されたバーレ政権に対する武装闘争と1991年の政権転覆は、軍事政権による抑圧や迫害、差別、排除、政治的・社会的・経済的な不公正によってもたらされた。また、冷戦構造の下、ソ連とアメリカがバーレ政権に対して巨額の軍事援助を行い、ソマリアに膨大な量の小型武器と兵器、「武器の文化」をはびこらせたことも、内戦の大きな原因となった。
Africa-latina/ 大津祐嗣
2007年07月02日
ガーナでAU首脳会議開幕
● 1日ガーナでAU首脳会議開幕 アフリカ連合(AU)の定例首脳会議が1日、3日間の日程で、ガーナの首都アクラで始まった。アフリカの統一政府樹立という構想が公式課題。
同時に今アフリカでもっとも重要な課題とされる、スーダン西部ダルフール地方の紛争やソマリア情勢なども協議するとみられている。
主催国ガーナは、1957年3月にイギリス連邦内の自治領として独立してから、今年3月で50年を迎えた。サハラ砂漠以南の国では最初の独立国である。初代大統領のンクルマはアフリカの政治的統一(パンアフリカニズム)を熱望、提唱していた。ナイジェリアの著名な音楽家であったフェラ・アニクラポ・クティなどに大きな影響を及ぼしたことでも知られる。政治運動、女性解放の旗頭でもあったフェラの母親の盟友でもあった。
現在では、リビアの最高指導者カダフィ大佐らが統一政府の主な提唱者である。「非現実的」「時期尚早」との声も聞かれるが、統一政府樹立のアイデアそのものはンクルマの時代から、またアフリカの外でパンアフリカニズムが提唱されてからはすでに100年を越える長い歴史が刻まれている。それが現実からほど遠いと指摘されるのが今のアフリカの現状。
AUは「アフリカの統一」を目標に掲げながらも、当面の差し迫った重要な課題を抱えている。AUのクフォー議長(ガーナ大統領)は開幕演説で「統一政府の類は熟慮の末に到達できるもの」と指摘。執行部トップのコナレ委員長も「我々は多くの問題と格闘する必要がある」と述べ、現実を直視するよう警鐘を鳴らした。
それでも大佐の提唱のために議会の時間を費やさざるを得ないのはAU内での突出したリビアの経済力。加盟国分担金の15%を一国で負担し、最貧国への援助も多い。「資金をバックに強大な発言力を持ち、多くの中小加盟国は黙って従うしかないのが現状」(外交筋)とも言われている。
ダルフールをめぐっては、スーダン政府が6月、1万7000−1万9000人規模の国連・AU合同平和維持活動(PKO)部隊受け入れを了承したばかり。新たな転機を迎えている。
一方ソマリアでは、AUが8000人のPKO部隊派遣の方針を決めたものの、治安悪化で予定の一部分に達する部隊しか現地入りできていない。(共同、MSNニュース他、参照) Africa-latina/Mii
現在では、リビアの最高指導者カダフィ大佐らが統一政府の主な提唱者である。「非現実的」「時期尚早」との声も聞かれるが、統一政府樹立のアイデアそのものはンクルマの時代から、またアフリカの外でパンアフリカニズムが提唱されてからはすでに100年を越える長い歴史が刻まれている。それが現実からほど遠いと指摘されるのが今のアフリカの現状。
AUは「アフリカの統一」を目標に掲げながらも、当面の差し迫った重要な課題を抱えている。AUのクフォー議長(ガーナ大統領)は開幕演説で「統一政府の類は熟慮の末に到達できるもの」と指摘。執行部トップのコナレ委員長も「我々は多くの問題と格闘する必要がある」と述べ、現実を直視するよう警鐘を鳴らした。
それでも大佐の提唱のために議会の時間を費やさざるを得ないのはAU内での突出したリビアの経済力。加盟国分担金の15%を一国で負担し、最貧国への援助も多い。「資金をバックに強大な発言力を持ち、多くの中小加盟国は黙って従うしかないのが現状」(外交筋)とも言われている。

