2007年07月08日
ソマリアの歴史 by Ootsu その1
★ソマリアの歴史★
<植民地化以前>
ソマリアでハム系のソマリ人が勢力を拡大する以前(10世紀頃まで)は、オロモ人やバントゥ系の農耕民などが南部の肥沃な地域に暮らしていたと言われる。また、ソマリア沿岸部には、イスラームの広がる前(7世紀以前)からアラブ系の移民が流入し、数多くの港湾都市を形成していた。10世紀頃には、ソマリ人が北部沿岸地方を支配し始め、その後、南部へと勢力を拡大していったとされる。
外国勢力が植民地支配を開始する前のソマリアには、いくつか中央集権的な国も存在したが、概して、伝統的ソマリ社会は、男を通じて始祖へと遡る分散的な血族関係システムに基いた無国家社会だった。そうしたなか、ソマリ人は、氏族、下部氏族、ディヤ補償集団(注)など、様々な規模の血族集団に同時に属しながら、遊牧生活を営み、長老たちの評議会や慣習法、イスラーム法などを通じて、社会秩序を維持していた。イスラームは早い時期からソマリアに浸透し、ほぼ全てのソマリ人がスンニ派のイスラーム教徒となっていった。
17世紀末には南部のモガディシオなどの港がオマーン王国の支配下に入り、18世紀には北部の港がオスマン・トルコに支配されるようになった。19世紀前半には、南部沿岸の港町がザンジバル(現在のタンザニアに含まれる島)の勢力圏に入り、19世紀半ば以降、ソマリアはイギリス、フランス、イタリアの間での植民地化競争に巻き込まれていった。そして、1887年には、イギリスが北部のベルベラにソマリランド保護領を樹立し、1889年からは、イタリアが南部の海岸部を支配し始めた。ソマリア南部のジュバ川以南の地域は、1895年までイギリス帝国東アフリカ会社が所有していたが、その後、イギリスの東アフリカ保護領の一部とされ、1924年にイタリア領ソマリランド(北部のイギリス領ソマリランドとは異なる)に譲渡された。
(注)ディヤ補償集団は、核家族・大家族に次いで最も重要な社会組織で、数百人から数千人まで様々な規模のものがあった。これよりさらに規模の大きなものが下部氏族で、複数の関係する下部氏族の集まりが氏族である。
<植民地時代>
ソマリア北西部のイギリスのソマリランド保護領では、1899年から1920年までの約20年間、宗教指導者サイイッド・マハメド・アブドゥレ・ハッサンが、ダラウィーシュ(デルヴィッシュ)と呼ばれる反乱軍を率いて、植民地政府に対する闘争を行った。このダラウィーシュ運動が不成功に終わると、イギリス人は、内陸部への勢力の拡大を進めた。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、イタリアがイギリス領ソマリランドを一時期占領したが、1941年にはイギリスが自国領を奪還し、南部のイタリア領ソマリランドをも支配下に置いた。1940年代には、イギリス植民地政府が北西部で住民の政治活動の禁止を解除したことで、ソマリ人による民族主義運動が盛んになり、多くのソマリ人政治指導者がイギリス領ソマリランド、イタリア領ソマリランド、エチオピア東部のソマリ人居住地域(オガデン地方:後にこの地方をめぐってソマリアとエチオピアの間で戦争が勃発)、フランス領ソマリ海岸(現在のジブチ)、ケニアのソマリ人居住地域(北部辺境県)を統一して汎ソマリ国家を築こうという大ソマリア主義を唱えるようになった。
第二次大戦中にイギリスが占領した南部の元イタリア領ソマリランドは、1950年に国連信託統治領とされ、イタリアが10年間管理することになった。この信託統治領でも急速に民族主義運動が高まっていった。
1960年6月26日には、北西部のイギリス保護領がソマリランドとして独立し、6月30日には、イタリアが管轄していた南部の国連信託統治領がソマリアとして独立を宣言した。そして、その翌日の7月1日、ソマリランドとソマリアが合併してソマリア共和国が誕生した(1991年のバーレ政権崩壊後、ソマリランドは再び独立を宣言)。
<文民政権時代>
ソマリア共和国が成立すると、ソマリランド首相が教育大臣という比較的地位の低いポストに任命されたり、国会で北部が南部の3分の1ほどの議席しか与えられなかったりしたことなどから、北部では南部に対する不満が募っていった。1961年に実施された、ソマリランドとソマリアの統一を謳った憲法に関する国民投票では、ソマリランドの投票者の6割が反対した。しかし、多数派である南部の人々の票により、憲法が承認された。この国民投票の半年後、北部の中心都市であるハルゲイサでクーデター未遂事件が起こった。
初代大統領となったアデン・アブドゥラ・オスマンは、大ソマリア主義・民族統一を掲げたが、1963年、イギリスは、主にソマリ人が住むケニアの北部辺境県を含めてケニアに独立を与え、1964年には、エチオピアのオガデン地方をめぐる戦闘でもソマリア軍は勝利することができず、大ソマリアの夢は強い打撃を受けた。
1967年にはアブディラシッド・アリ・シェルマルケが第二代大統領に就任し、1969年には62もの政党が競い合う議会選挙が実施された。この選挙では、政治指導者の間で思想的な相違が少ないなか、氏族的な背景が、政党や候補者を区別するほぼ唯一の要因となった。選挙後には、ほぼ全ての野党議員が国家権力の中枢にできるだけ近づこうとして与党に移り、ソマリアの議会制民主主義は大きく損なわれた。
その後、ラス・アーヌードの町でシェルマルケ大統領がボディ・ガードによって暗殺された。そして、議会が次期大統領を選出する投票を行う前日の夜、軍司令官のモハメド・シアド・バーレ将軍が率いる軍部がクーデターを起こし、1969年10月21日に国家権力を掌握した。
<軍事政権時代>
1969年10月21日にクーデターで国家権力を掌握した勢力は、まず以前あった議会、行政府、司法の組織を解体し、シアド・バーレ将軍を議長とし、24人から成る最高革命評議会を、唯一かつ絶対の立法・政策立案機関とした。
バーレは、「科学的社会主義」のイデオロギーに基いて社会主義国家の建設を目指し、抑圧的な独裁体制を敷いた。1976年には、ソマリ社会主義革命党が創設された。バーレ軍事政権は、ソ連の軍事援助を受けて軍を増強し、大ソマリア主義を掲げて、1977年にエチオピアのオガデン地方に侵攻した。このオガデン戦争では、ソ連がソマリアへの支援を止めて、メンギストゥの率いるエチオピア社会主義政権に強く肩入れしたことで、ソマリアは敗北した。そして、バーレ政権は、敗戦後、社会主義路線を放棄し、一転、アメリカから軍事援助を受けるようになった。
ダロッド氏族の下部氏族、マーレハンに属すバーレは、表向きは「氏族主義」の打破を唱えながら、実際には、ダロッドの3つの下部氏族、マーレハン、オガデン、ドゥルバハンテを特に優遇し、他の氏族や下部氏族を抑圧して支配を行うこともあった。北西部では、イサック氏族が組織的な差別・弾圧を受けた。それに抵抗するため、1981年にはイサック氏族を中心とするソマリ国民運動という反政府組織が結成され、(旧)南イエメン、リビア、そして主にエチオピアから支援を受けて、バーレ政権(アメリカの軍事援助を受けていた)に対する武装闘争を展開していった。また、マジェルティーン下部氏族を中心とするソマリ救済戦線や、ソマリア救済民主戦線、ハウィイェ氏族の戦闘部隊、1989年にハウィイェ氏族を中心に結成された統一ソマリア会議、南部のソマリ愛国運動なども反政府闘争を行っていった。そして、内戦が国中に広がり、1991年1月にバーレ政権が崩壊した。
1980年代から展開されたバーレ政権に対する武装闘争と1991年の政権転覆は、軍事政権による抑圧や迫害、差別、排除、政治的・社会的・経済的な不公正によってもたらされた。また、冷戦構造の下、ソ連とアメリカがバーレ政権に対して巨額の軍事援助を行い、ソマリアに膨大な量の小型武器と兵器、「武器の文化」をはびこらせたことも、内戦の大きな原因となった。
Africa-latina/ 大津祐嗣

