ソマリア中・南部
1991年1月下旬に統一ソマリア会議の部隊がバーレを追放すると、統一ソマリア会議の一派がアリ・マフディ・モハメド(ハウィイェ氏族・アブガル下部氏族)が暫定大統領となることを宣言し、バーレ政権の元閣僚を含んだ暫定政権が設置された。統一ソマリア会議の軍事指導者、モハメド・ファラー・アイディード(ハウィイェ氏族・ハブルゲディル下部氏族)は、この動きに強く反発した。2月にモガディシオで開催される予定だった諸勢力の間での和解会議はボイコットされ、その後ジブチで開かれた会議でも和解はもたらされず、アイディード将軍とアリ・マフディ暫定大統領という2人の武装勢力指導者の抗争を軸に、内戦が広がっていった。
ソマリアでの人道状況の悪化を懸念した国連安全保障理事会は、1992年4月24日、第一次国連ソマリア活動(UNOSOMT)の設置を決議し、人道援助の確保を主な目的とする国連の平和維持活動(PKO)が開始された。しかし、その後、人道状況が深刻化し、UNOSOMTへの攻撃や援助物資の略奪なども増えていったため、国連安保理は、1992年12月3日、統一タスクフォース(UNITAF)の設置を決議し、アメリカを中心とする多国籍軍が、人道援助を強化する活動を展開していった。
1993年3月26日には、より強力な平和執行部隊が必要とされているというブトロス・ガリ事務総長の勧告に基き、国連安保理が第二次国連ソマリア活動(UNOSOMU)を設置し、ソマリアにおけるPKOに大きな変化がもたらされた。UNOSOMUには強制権限が与えられ、武装解除や反対者の逮捕なども行っていくことになったのである。しかし、UNOSOMUがアイディード派の武装解除を進めようとすると、アイディード派は反発し、PKO要員への攻撃が続いた。そこで、アメリカは、国連とは指揮系統の異なる特殊部隊を派遣してアイディード派に対する強制行動を行った(映画『ブラックホーク・ダウン』に描かれている)が、武装勢力による攻撃を受け、ソマリアから撤退することとなった。そして、1995年3月には、ソマリアに派遣されていた全ての外国部隊が撤退した。
1991年以降、近隣国や地域機構などの仲介で、数多くの和平会議が開催されたが、ソマリア中・南部の武装勢力の間で完全な和平が達成されることはなかった。2000年5月には、ジブチ政府のイニシアティブによりアルタで和平会議が開かれ、2000年8月に245名から成る暫定国民議会が樹立され、アブドゥルカシム・サラド・ハッサンが暫定大統領に選出されたが、この暫定国民政府はエチオピアや武装勢力から反発を受け、短命なものに終わった。
2002年には、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、ケニア、ジブチ、スーダン、ソマリアの7ヶ国から成る政府間開発機構(IGAD)の仲介したエルドレット・ナイロビ和平プロセスが開始された。この和平プロセスの結果、2004年10月にはエチオピアの支持するアブドゥッラーヒ・ユスフが暫定大統領に選出され、暫定連邦政府(TFG)が発足し、2006年2月末にはソマリア南部のバイドアで暫定連邦政府(TFG)の議会が初めて開かれた。
しかし、その直前に、2004年末に首都モガディシオで結成されたイスラーム法廷連合(UIC)の勢力拡大を危惧する軍閥から成る「平和の回復と反テロリズムのための同盟(The Alliance for Restoration of Peace and Counter-Terrorism: ARPCT)」がイスラーム法廷連合(UIC)と戦闘を開始し、首都は戦火に包まれていった。暫定連邦政府(TFG)のユスフ暫定大統領は、アメリカがイスラーム勢力と戦う軍閥に資金を提供していることを非難した。戦闘の末、2006年6月5日にはイスラーム法廷連合(UIC)が首都を制圧し、ソマリア中・南部の各地に勢力を拡大していった。
そうしたなか、バイドアの暫定連邦政府(TFG)は、イスラーム原理主義勢力の浸透を警戒するエチオピア軍の支援を受けるようになっていった。その後、9月4日には、アラブ連盟の仲介で開かれたハルツームでの交渉で、暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)は、共同で国軍と警察を組織していくことや近隣国を紛争に巻き込まないことに合意したが、暫定連邦政府(TFG)はエチオピア軍の支援を受け続け、イスラーム法廷連合(UIC)はバイドア方面へ部隊を展開していった。
11月中旬に出された国連の報告書は、10ヶ国が国連によるソマリアへの武器の禁輸措置に違反し、ソマリアに武器を送っていることを指摘した。それによれば、エチオピア、ウガンダ、イエメンが暫定連邦政府(TFG)を支援し、シリア、イラン、エリトリア、ジブチ、エジプト、リビア、サウジアラビアがイスラーム法廷連合(UIC)を支援していた。このような諸外国による干渉は暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との対立を悪化させ、11月末頃にはエチオピア軍・暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との間で散発的な衝突が始まった。
イスラーム法廷連合(UIC)は、12月12日、エチオピア軍が7日間以内にソマリアから撤退しなければ、攻撃を開始して強制的に退去させることを通告したが、エチオピア軍は撤退せず、同月19日にバイドアでエチオピア軍・暫定連邦政府(TFG)とイスラーム法廷連合(UIC)との激しい戦闘が開始された。24日には、エチオピアのメレス・ゼナウィ首相が、イスラーム法廷連合(UIC)からエチオピアの主権を守るためにエチオピア軍の部隊がソマリアに派遣されたことを認め、28日には、エチオピア軍の支援を受けた暫定連邦政府(TFG)軍がモガディシオを制圧した。そして、イスラーム法廷連合(UIC)の勢力は離散し、一部はケニア国境方面へ逃走した。
ニューヨーク・タイムズ紙によれば、暫定連邦政府(TFG)は、31日、在ケニア・アメリカ大使にイスラーム過激派に対して行動を取るよう公式に要請し、2007年1月8日には、アメリカ軍のAC-130攻撃機が、ケニア国境近くのラス・カンボーニで、イスラーム法廷評議会の指導者の1人であったアデン・ハシ・アルヨを主な標的とした爆撃を行い、8人が死亡、3人が負傷した。在ケニア・アメリカ大使は、一般市民は誰も負傷・死亡していないとしたが、ソマリアの国会議員は、この空爆で27人の一般市民が死亡したとした。アメリカは、この爆撃はアメリカと国際社会をアル・カーイダによるさらなる攻撃から守るために必要だったと説明し、ユスフ暫定大統領もこの空爆を強く支持したが、国連安保理決議なしでこのような越境攻撃が行われたことに対して非難の声も上がった。
イスラーム法廷連合(UIC)追放後、治安が悪化し始めたモガディシオでは、民衆がエチオピア軍に対する抗議行動を行い、ユスフ暫定大統領は、2006年12月6日に国連安保理決議で承認されたIGAD諸国からの8千人の平和維持部隊の早期派遣を呼びかけた。
エチオピアは、1月23日、モガディシオからの撤退を開始することを表明したが、この日アメリカが、ケニア国境に近いラス・カンボーニとクルビヨウでイスラーム法廷連合(UIC)指導者を標的とした2度目の爆撃を行い、数多くの民間人が負傷したことが伝えられた。アメリカは、アル・カーイダの人々の影響力がイスラーム法廷連合(UIC)のなかで強まり、ソマリアの人々にとって大きな脅威となっていたとして、この空爆を正当化したが、この攻撃も国連安保理の承認を得ずに実施された。
国連安保理は、2月20日、アフリカ連合ソマリア・ミッション(African Union Mission in Somalia: AMISOM)と呼ばれるアフリカ連合(AU)の平和維持部隊のソマリアへの派遣を承認し、3月上旬には、約1,200名のウガンダ部隊がソマリアに到着した。しかし、ウガンダ部隊やエチオピア軍、暫定連邦政府は、イスラーム主義勢力等の反対派から攻撃を受け、モガディシオを中心に激しい戦闘が再燃した。2月以降、戦闘によりモガディシオから約40万人が避難したとされた。
ユスフ暫定大統領が呼びかけ、当初は4月16日に開催される予定だった国民和解会議は、治安の悪化、イスラーム主義勢力やハウィイェ氏族等からの反発などにより、何度も延期を余儀なくされた。
ソマリランド
北西部を拠点に、バーレ政権に対する軍事闘争を行ってきたソマリ国民運動は、軍事政権崩壊後、バーレ政権の側について戦ってきた氏族との和解を進めた。こうした和解プロセスにおいては、伝統的な氏族指導者たちが重要な役割を果たした。そして、ソマリ国民運動は、1991年5月18日、ソマリランド共和国の独立を宣言した。その後、ソマリランドでも武力衝突が何度も起こったが、氏族の長老たちを中心とした和平への取り組みによって秩序が回復された。2001年5月には、ソマリランドの独立を定めた憲法が国民投票で承認され、2003年4月には大統領選挙、2005年9月には議会選挙が複数政党制の下で実施された。
プントランド
バーレ政権が倒れた後、北東部では、ソマリア救済民主戦線が、統一ソマリア会議やアル・イッティハード・アル・イスラーミーというイスラーム原理主義勢力などと戦闘を繰り広げた。ソマリア救済民主戦線は、イスラーム原理主義勢力との戦闘においては、エチオピア軍からの支援を受けた。1998年5月には、ガロウェでソマリア救済民主戦線や氏族の長老などが主導する会議が開かれ、ソマリア内プントランド国が形成された。プントランドは、分離独立は目指しておらず、将来樹立される連邦国家の一部になることを表明している。ソマリア暫定連邦政府のユスフ暫定大統領は、プントランドの指導者だった。
南西ソマリア国
2002年4月、ラハンウェイン抵抗軍は、ハッサン・ムハンマド・ヌール・シャティグドゥドの指導の下、バイドアを首都とする南西ソマリア国の樹立を宣言した。この勢力は、当時、ベイとバクールの2地方のみを実効支配していたが、中ジュバ、下ジュバ、下シャベレ、ゲドを含めた6地方を支配することを目指していた。南西ソマリア国は、プントランド同様、分離独立ではなく、自治の達成を求めていた。2004年11月には、南西ソマリア国の指導者がソマリア暫定連邦政府の国会議員に選出された。
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